2015年7月10日

馬の博物館の収蔵資料紹介 その①「鮓荅石(さとうせき)」

「化石から馬券まで」、馬の博物館では、古今東西の馬にゆかりのある資料を集めています。

古くは人類創世以前の化石に始まり、人と馬の幾千年にもおよぶ結びつきから産まれた資料の数々、それらは自然科学・社会科学・人文科学・芸術のあらゆる領域にわたっています。

もちろん集めるだけではありません。集めた資料を保存して後世に伝えるとともに、研究し、展示して馬についての理解を広める一助ともします。

学術が日々着実に進む一方、レースに続々と若駒が歩を進めている現在、幅広く馬について調べ、資料を集めるためには、馬にかかわる方々からいろいろとご協力をお願いすることも多々あります。今後ともよろしくお願いいたします。

こうして馬を中心に、多彩な資料を集め、研究する馬の博物館は「馬のことなら何でもわかる博物館」を目指しています。ただ、どれだけ学術が進歩してもわからないことはあるかもしれません。特に勝ち馬については、レースが終わるまで解らないことが、明らかになっています。

それでは、そうした馬の博物館所蔵資料のなかから秘蔵の逸品をご紹介いたしましょう。

先ず初めにとり上げるのは、展示すると同情を集めることのできるという珍しい資料です。

鮓荅石

その名は「鮓荅石(さとうせき)」といい、大きさは直径およそ11.5㎝、重さは1.35kgほどで、上の方には一部削られた痕があります。

石とは申しますが、普通の石ではもちろんありません。そして普通に活字がありません。博物館の仕事の性質上、こうした見慣れない文字を取り扱うことはしばしばあります。見慣れない文字の列から説き起こし、どのようにわかりやすく解説するかも私たち博物館の大きな仕事の一つです。

さて、馬の博物館所蔵の「鮓荅石」には陸奥国最北端(今の青森県)の大名弘前藩津軽家伝来という由緒があります。同家に伝えられた巻物「鮓荅石由来記」によると、この石は津軽家で何代にもわたって受け継がれ、霊元天皇・中御門天皇のご覧に入れたこともある貴重な品です。一部が削られているのも、時の上皇に献上したためでした。

ただ、実態については不明だったようで、江戸時代半ばの津軽家家中でも、それを知りたい・調べようという機運が高まったのでしょう、当時本草学(薬物学)の大家として知られていた稲若水(とう じゃくすい)や松岡玄達、長崎のオランダ通訳、加えて来日したオランダ人にも教えを請いました。

その結果、これは海外で「ヘイサラバサラ」と呼ばれる物であって、気つけ・毒消しの薬効がある他、腹痛・疱瘡等を癒し、キツネにとりつかれた人も正気に戻すという不思議な薬であるということがわかりました。

体を治し、心を鎮める薬品というのは他にもあることと思いますが、この「鮓荅石」の効能はそれだけではありません。雨乞いにも使えるというのです。実に不思議な万能薬と言わざるを得ません。

「鮓荅石由来記」(部分)

このように、極めて珍しく不思議な「鮓荅石」であってみれば、当然、他にも参考となる文献が残っていることでしょう。その一つに肥前(今の長崎県)松浦の殿さま松浦静山の随筆集『甲子夜話』(全278巻)中の一節があります。

松浦静山によれば、日本堤(東京都台東区。浅草の北)に将軍家の馬の墓所がありました。そこには「山谷荒波馬頭観音堂」というお堂もあり、四代将軍徳川家綱の愛馬「荒波」以来、ここへ将軍家歴代の馬を埋葬していたようです。ちなみに、ほど近い浅草には馬市も幕府の厩舎もありました。

『江戸名所図会』より「浅草馬市」(部分 江戸時代・天保年間)

不思議なことに、ここに葬られた馬は、1年ほどで身も骨も残らず土に帰ってしまいます。それも、栗毛鹿毛なら赤土に、青毛ならば黒土になる、とのことです。後に残るのは「僻石鮓荅」(へきせきさとう)のみ。

つまり「鮓荅石」が江戸の市中、それも良く知られている浅草の近くで見つかっていたのです。

もちろん、ここで見つかる「僻石鮓荅」は、将軍家の愛馬に由来するものなので、持ち出すなどはもっての外。
しかも、立派な本を遺した松浦静山のような教養豊かな殿様でさえ、「この僻石なるものが何なのかは解らない」と書き残しています。

まさに、知られていなかったからこそ、津軽家では広く国の内外に知識を求めたのでしょう。

以上、ご案内してきた「鮓荅石」「僻石鮓荅」「ヘイサラバサラ」ですが、わが邦にも江戸時代にもとどまらず、アジア全域で知られており、モンゴルやトルコ系の民族の間では「ジャダ」の名で知られておりました。

モンゴル民族の古典『モンゴル黄金史』には、大元帝国滅亡のおり、中国人叛乱軍に追われ、北京を脱出、遠く父祖の地モンゴルへと走る皇族貴族一同の最後尾を守った皇子ビリクトが、「ヂャダの秘法」を執り行って暴風雨を招き、迫りくる中国兵の大群を滅ぼしたとあります。ヂャダ(即ち鮓荅石)パワーで敵を退けたこの皇子ビリクトは、元朝最後の皇帝トゴンテムルと高麗国出身の奇皇后の子の皇太子アイユルシリダラで、後にチンギスハーン・フビライハーンの帝国を継承する国「北元」の皇帝となりました。

それでは、この鮓荅石の正体は何だったのでしょうか?JRA競走馬総合研究所による分析によると、その成分はリン酸アンモニウムマグネシウムを主成分とし、カルシウム・クローム・ニッケル・銅・鉛・亜鉛・鉄等、その生成の場所は、馬の腸の中。

つまり、鮓荅石を今の獣医学の言葉でいうならば馬の孤在性真性腸結石となります。

馬の体内にできた大きくて重い結石、その由緒から、この資料は、大勢の、特に中高年のお客さまから広く同情を集めているのです。

馬事文化財団
馬の博物館 村井文彦