2013年1月4日

新年、あけましておめでとうございます。

今年から、馬の博物館ホームページ上で、学芸員によるコラムを開始しました。

日常の展示では紹介しきれない、馬文化の世界へご案内します。

白馬の挨拶
白馬の挨拶

【第1回】初春馬の寿(はつはるうまのことほぎ)

馬の博物館 村井文彦

「春駒」
「春駒」

♪春の初めに春駒なんぞ 夢に見てさえ良いとは申す…

これは、一年の幸いを願って、雪深い山村で子どもや若者たちが歌った歌である。

夢に見てさえ良い。それが、私たちの先祖の見出した馬の一つの姿だった。 

めでたく・楽しく・縁起のよい動物。それが馬だった。

奥飛騨・白川村(岐阜県大野郡白川村)では、大晦日の夜、若い衆が三味線や太鼓の音もにぎやかに、次のような蚕飼唄(こかいうた)を高らかに歌っていたという。

♪どんぶりばちういたういた
がんがんどんどんしゃかしゃかしゃん
やんさめでたや

♪春の初めに春駒なんぞ
夢に見てさえ良いとは申す
日も良し世も良し蚕飼もよろし
がんがんどんどんしゃかしゃかしゃん

♪あの蚕にこの蚕の桑食う様は
昔源氏の代を盛りの
三歳駒の草食うごとく
がんがんどんどんしゃかしゃかしゃん

そして、この歌にあわせ、美しい踊り子が、鈴を鳴らしつつ、一戸一戸まわって踊りを見せた (ちなみに、楽器を奏でるのも、麗しく化粧して踊るのも、村の青年男子だった)。来るべき春を待ち望む大晦日にふさわしい、この習わしを「春駒」と呼ぶ。

白川村の隣、越中国砺波郡利賀村(富山県南砺市利賀)では、初午の祭でも「春の初めに春駒なんぞ 夢に見てさえ良いとは申す…」と唱える習わしがある。

この唱えごとのある初午祭では、村を一軒一軒、若い衆ではなく子どもたちが廻る。

現在では1月上旬に行われるようになったが、もともとは旧暦二月初めに行われていた。日程こそ変わったものの、昔から同じように、村の子どもたちは訪ねた家々で『乗り込んだ、乗り込んだ、お馬が乗り込んだ』と歌う。

そして、それぞれ、わらでこしらえた馬の頭と尻尾を手に、子どもが歌にあわせて馬の動きをまねて踊るのである

白川村も利賀村も、日本の中央を占める山脈の懐深い谷の中にあった。ここにつながる道には険しい坂もある。時には降り積もった雪がさえぎることもあった。

そうした山村の村人に、峠の向こうから、馬はいろいろなものを運んでいた。暮らしに欠かせないものはもとより、遠くからの届け物やたよりも馬や馬を牽く人がもたらした。物だけではない。村へ帰る人々も、また馬と連れだって戻って来たかもしれない。

訪れを待つ人々の中には、遠くから来る馬の姿を待ち望む心情が生まれたことだろう。そして、それが、馬の姿を夢にまで見させたのではないだろうか。

このような「春駒」の祭では、利賀村のわらの馬の頭のように、しばしば馬の頭をかたどった造り物をもちいることがある。それを手に、馬の動きをまねた動きをすることもある。今も郷土玩具に見られる「春駒」も、もとはこうした行事に連なるものかもしれない。

「春駒で遊ぶ金太郎
初代歌川豊国筆 山姥・三田仕 中村歌右衛門  怪童丸 関三十郎」
「春駒で遊ぶ金太郎
初代歌川豊国筆 山姥・三田仕 中村歌右衛門 怪童丸 関三十郎」

ところで、年の初めの馬の神事といえば、平安の昔、宮中で行われていた「白馬節会」(あおうまのせちえ)という行事が良く知られている。

年の始めの例しとして、白い馬を見て息災を願う神事である。

白馬の美しく凛々しい姿は、見るだけで邪気を祓うのであろう。

王朝の伝統を感じさせるこの「白馬節会(あおうまのせちえ)」は、今日の京都では、
賀茂別雷神社(上賀茂神社・京都府京都市北区)が、1月7日、神前に白馬を牽く等する「白馬奏覧神事」にその姿を偲ぶことができよう。言うまでもなく、賀茂神社は競馬(くらべうま。古式競馬)で知られる格式のある神社である。

「白馬奏覧神事」では、先ず本殿でご祭神に七草粥をお供えした後、参道の傍らの神厩から、壮麗な馬衣で飾った白い神馬を引き出し、巫女が大豆を差し出すというものである。例年、神馬は差し出された大豆を無心に食べるという。神馬の姿に、参拝客は来るべき一年の平穏を感じ、かつ願うという 。全力で駆けるのでも、重い物を担うでもない馬の姿にも、また、人をして感じさせるものがあるのだろう。

また、やはり1月7日の夜、都を遠く離れた東国常陸にあって、古来から武神として名高い茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮でも、鎌倉時代以来の由緒があるという新年恒例の白馬祭(おうめさい)が開かれる。

こちらの神事では、神厩から出たご神馬7頭は、境内を走って駆け抜けて行く。そして、単に詣でている人々の眼に馬を触れさせるだけではなく、特に近年、「ハンカチや手ぬぐいをご神馬に踏ませると、恋のかなうおまじないとなる」とささやかれており、神馬の通る前にハンカチを敷いたり、通った後の小石を拾ったりする人が多いという。

このように、年の初めに人の息災を願って馬の姿を見たり、馬の動きに習った動きをして、来るべき月日の幸運を招く習わしがあるとともに、一年の仕事に先だって、馬の新年を祝う行事もあった。「馬の年取り」「馬の年越し」等と呼ばれる行事である。

地域によって内容は異なるが、人間の正月にはいいさか遅れた時期に、馬や牛の為に餅を用意し、厩に供えるなどした。 もちろん、そこには馬の息災を願う思いもこめられていたことだろう。

さて、このように夢に見てさえ良い馬の縁起の良い姿を、もう一つ、わが国の演劇「狂言」に見てみよう。

中世日本人の喜怒哀楽を伝える「狂言」には、馬を売り買いする馬博労(うまばくろう)と牛を扱う牛博労(うしばくろう)が、舞台の上で馬をほめ牛を称えてそれぞれ自己主張を繰り広げる『牛馬』という作品がある。

そのなかで、馬博労は、「雲の上には望月の駒迎ひせし逢坂の小坂の駒も心して、引く白馬の節会にも」と、京へはるばる上り行く東国の産駒を都の貴族が逢坂の関まで迎えに行く王朝の儀式「駒迎え」、その馬を貴顕の前で牽いて歩く「駒牽き」そして、既に見た「白馬の節会」の儀式を数え上げ、大切な国の儀式に欠くことのできない馬の尊さを述べ立てた。

ここで馬博労が力説するように、馬がめでたく・楽しく・縁起のよい動物である理由の一つは、神事や儀式で活躍するからだろう。

とはいえ、馬が大事だったのは、神事・儀式にかぎった事ではなかっただろう。人々は、日々の仕事と暮らしを・苦楽を馬とともにしていた。人馬がともに働くなかで、馬は重荷を背に峠を越えたり、泥深い田を耕したりして来た。その苦楽をともにした歩みは、私たちの歴史と同じくらい長く、かつ想い出深いものだったに違いない。

そうであるからこそ、わたしたちは上下の隔てなく、馬の姿を良いものと感じ、その力強い走りに心を躍らせてやまないのではないだろうか。

先の「牛馬」馬博労は言っている。

「駒北風にいばうれば、悪魔は くはっと退きて、目出度きことを競い馬」

北風に馬がいななけば悪魔は退散、そして、あたかも二頭の馬が轡を並べて先を競うわが邦の古式競馬のように、めでたいことが競って走り来るのである。

白馬の憩
白馬の憩